大体何だってこんなにも疑惑の目を向けられないといけないんだ。

あんたのせいだ、あんたの。

 

そう言いたい気持ちは山々だったが、死んでも言ってやらんと薄く微笑んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

風を切る矢の音にはもう慣れた。やってくる方向、速度、そして意図。

こんな時間に私に何の用だろう、素直にそう思いつつ、ドシュっと音のした目の前のそれを引っこ抜こうと目をやる。

毒は塗りこめられてはいなさそうだ、しかし、どうもいい知らせだとは思えなかった。

一瞬気づかなかったフリでもしてやろうかとは思ったが、矢を放った人物の気配がまだある。

おそらく見たという所までは見届けろというのが任務なのだろう。

 

 

「はぁ。」

 

仕方ないわね、と溜息を吐きつつ、嫌な予感のする一枚の紙に手を伸ばす。

それはいつもの魏の面々の紙質とは異なって、淡い緑色をしていた。嗚呼、開けたくない。できることならこの危険信号が鳴り響く本能のまま逃げてやりたい。

 

開いた瞬間、一番下に記されていた名前をみて思わずぎょっとした。

面と向かって対峙しているわけではないのに、この紙にさえ心を読まれているような気持ちの良いものとはいえない感覚。

 

『諸葛亮公明』

 

なんでこうも私は厄介なことばかりにまきこまれるんだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

にはよく『密書』が届く。

しかも魏の武将陣がほとんどで、それも八割寝返りをしないかという内容。

武将としてかなりの腕があると評価されているのに、いつまで経っても副将止まりの彼女を引き抜こうと誰も彼も必死だ。

 

一度だけ、とんでもない人物から矢文がやってきたことがある。

『先の戦でお前が必要だ。来い、さもなくば殺す。』

強引極まりない手紙だった、手荒いにもほどがあると思ってあきれ返っていると、背後からその文を取り去られ る。

 

「とうとう呂布ですか。」

 

勝手に読まないでよという不服の視線を向ければ、からからと笑う彼。

取り返すことを諦めて立ち去ろうとするが、それを視線で食い止められた。

 

「あなたは気づいているのでしょう?」

「なにを?」

 

何に対してか、それは本当にわからなかった。だから何を?と答えた。

ただ彼が、私を駒として利用しているのだけはわかっていたが、間違った返答とまではいかないだろう。

 

「本当にくえない女ですねあなたって」

「陸遜にだけは言われたくないわ」

 

確かに、と返ってきた返事に思わずくすりと笑った。

陸遜が私をどうしようと思っているかは勝手だ、しかし私自身がどう動くかは私の勝手 でしょう?

埋伏の毒としてはもちろん、この国にただおいておくだけでも利用価値がありすぎる存在だった。

娼婦として潜伏させるにもそれだけの美貌は持っていたし、何より魏の曹操は妾として欲していた。

それを利用して、政略をしていくこともきっと陸遜は考えているのだろう。

 

「いつも思うのですが、こうも好条件で提示されてくるのに何故揺るがないのですか?」

「・・・教えると思う?」

「いいえ、全く」

「ほんとに喰えない男ね、陸遜って…」

 

私がこうして軽くあしらっているだけなのに、彼はものすごく頭をフル回転させて詮索しているのだろう。

疲れやしないのだろうか。心底そう思う。

 

「残念な子ね」

 

もっと人生楽しめばいいのにと思って、そういう意図で言っただけなのに、彼の癪にさわるには十分だった。

翌日の執務が異様な膨大なさだったのを思い出した。

ありえない、軽く三日分はあった。まぁ三分の一は結局夜半に来た陸遜によって消化されたのだけれど。

 

 

 

 

 

過去に思考をめぐらせていた頭をこちらに強制的に戻してくる。

嗚呼、現実逃避してたのかね私、きっと。

この手元の紙を持つ手が微かに震えているのは、怒りか、恐怖か。

 

男、諸葛亮が言ってきたのは簡単に言えばこうだった。

 

 

 

呉国の陸伯言という軍師が蜀の急速な発展に慄き、呉国の姫君と蜀の君主である劉備殿の政略結婚を申し出てくるという報がある。

遺憾ではあるが、我々にとっても好都合な面もある故受けるかもしれない。

 

ここまではよかった。

そう、ここまでは、あぁ見なければよかった。

 

その申し出を受ける代わりに、正式に同盟を組むまで蜀の武将として働いてほしいというものだった。

優しい言い方ではあったが、つまりは人質だ。

呉国があまりにも非道な要求をしてきた場合に、私を利用するつもりだろう。

 

そしてそこまでならまだしも、ありえないものを見た。

 

魏の曹操がを討つ計画を練っているらしい。今の呉はかなり負傷者がいるとのこと、曹操自ら出向くといわれているが厳しいのではないか?

 

 

 

蜀の情報力には驚かされた。

既に付きの女官の中に間者がいること、それは把握済みであったが、もう一人暗殺目的の間者が潜んでいるとのこと。

 

「迂闊すぎる」

 

自分への叱責のような言葉が漏れる。

ここで呉に残れば、魏に下手をすれば攻め入られてしまう。

私を討つまで、あるいは私を手中にするまで攻め入るのだろう。

利用価値のありすぎる者は、敵に消されるのがセオリーだが、まさか自分に降りかかってくるとは思わなかった。

 

今は完全ではない、この国は。

何度も何度も攻めいられれば、いつかは傾いてしまうかもしれない。

 

 

十日ほど前の戦で魏相手に相当な痛手を負っていた。

なかでも尚香が、一時危険な状態まで陥ったくらいだ。

 

 

この状態で突然奇襲されるのは極めて痛かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それが私の決めた、理由だった。

 

 

呉を、守りたかった。 だから、蜀に逃げた。

 

寝返ったと思われてもいい、それで守れるならば。

 

 

 

 

 

翌日、誰にもなにも告げず、蜀へと向かった。

すぐに呉国に報がもたらされ、が蜀へ寝返ったことが広まった。

 

 

 

尚香の枕元に、一輪の花を、陸遜の私邸の前に、ひらかなで「ごめんね」と書いた文を残して、私は蜀の武将となった。

 

 

 

 

 

 

 

 

…」

 

尚香が目を覚ますと、二人でよく摘みに行った花が枕元においてあった。

ぽろぽろと泪を流す姫君に、誰もが胸を痛めた。

 

陸遜はそんな彼女を労わりながら、何度も頭のなかで反芻した。

 

「何故蜀なのです、何故、今なのですか。」

 

 

一人ごちた言葉は誰の耳にも届かぬまま、空へと消えていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

馬を走らせながら、色々なことを考えた。

蜀と手を組んで曹操を潰せるかどうか、しかしそれでは蜀の面々にも負担がかかるのではないか。

最悪…、私はひとつの結論を導き出した。

蜀での第一陣で、多数の負傷者が出た場合、流浪の武将に文を出そう。

 

 

彼なら私情などはさまず付き合ってくれるだろう。

 

 

 

 

 

 

さらさらと靡く髪をかきあげて、再び馬の腹をけり加速する。

 

 

「ごめんなさい」

 

それは、私の背中となり盾となってくれた陸遜へ。

琴線のようだった私のなかへと踏み込んでくれた尚香へ。

そして、呉の面々への呟きだった。

 

 

 

 

 

 

アトガキ

うまくいかない、ほんと。